ソール・ライター
ソール・ライター展に行った。
多分彼自身は、自分がこんな風に賞賛されて、注目を集めて有名になることは得意じゃないんだろうな。
"自分の作品が褒められるのは素直に嬉しいけど、だからって自分が偉いわけじゃない。"って言いそう。
ファッション、ストリート、カラー写真、絵画もやったし、パートナーのヌードも撮った。
盛りだくさん。
本人も言っていたように、白黒よりもカラーの写真の方が素敵な気がする。
私がいいなって思ったのはほぼカラー写真だった。
「自動車」っていうタイトルの写真が一番好きだった。タイトルの「自動車」は一目見てそれだって分かるようには写真の中に全く写ってなくて、え?って思った。
全体の3/4は真っ暗で何も写ってなくて、右上の1/4くらいが長方形にNYの道の景色が写ってて、そこにぽっこりお腹のおじさんが横を向いて立っている写真。
車の中からおじさんを撮った瞬間。
黒い部分は車の影というか、車の中の暗い空間なんだろう。
よくこんなとこから撮ろうと思ったな。
素敵だし、少なくとも私はこの写真がアートだと確信してる。
おじさんの後ろには、ショーウィンドウにある見切れたネオンサインが写り込んでる。
それがまたとてつもなく雰囲気を醸し出してて、お洒落で、ネオンサインにアメリカを感じずにはいられない私にとってはかなりのツボを抑えてる写真。
本当はそのポストカードが欲しかったんだけど無くて、「天蓋」という題がついた写真のポストカードを買った。
これも上2/3が真っ黒で、
下の隙間のような部分に吹雪の中でNYの街を歩く人が写ってる写真。
白黒じゃないんだけど、白黒みたいな。
下の狭い部分にしか人や街は写ってないのに、そこから寒さ、街にいる人の気持ちがとてつもなく伝わってくる。
「すげぇ。」って本気で思った。笑
私は雪の中にかすかに見える後ろの公園のような場所がブライアントパークに見えて仕方なくて、それもあってポストカードを買った。
ニューヨークで私が一番好きな公園、ブライアントパーク。ソールが撮った写真は1958年。80年代のブライアントパークは悪の巣窟といっても過言ではないほど荒れてたらしいから、彼が写真を撮ったあとに随分変わったのかな〜と想像したり。
それにしてもニューヨークに行きたくなる。
日曜日→月曜日
日曜日と月曜日の切れ目。
今から24時間前の日曜日を生きてた私と
そこから24時間後の今を生きている私。
時間はつながっているはずなのに
確実に私は止まることなく息をしていたはずなのに
どうしてこんなにも違う世界にいると感じるのか。
日曜日と月曜日の切れ目はいつなのか。
夜に眠るってことは、
時間を切るっていう行為でもあるのかな。
信じられないくらい昨日が遠い。
確実に私はそこにいて、確実に私は笑っていた。間違いなくそれは昨日で、24時間前の私は楽しかった。
月曜日の気持ちって本当に不思議。
24時間前に戻りたいなぁって思うけど、戻ったってまた月曜日がやってくるのは変わらないんだと、時間の流れは未来に進むだけなんだって思い出す。
仕事を充実させる。前向きに頑張る。
みんなやってる。
それでも月曜日はいつも曇り模様。
未来に楽しみな予定を入れるのは、戻れない日曜日を受け入れつつ、ポジティブに生きるため。
それが大人。
泣き喚いても、シクシク泣いても
メソメソいじけてても、
もう私達には前に進む道しかない。
切れない時間も辛い。
嫌なことがずーっと切り替えるタイミングなしで心や体に残るから。
眠ることで時間が切れる。
楽しかったことも、悲しかったことも
全部眠る前の出来事になる。
忘れられないような激しい気持ちも
眠りが落ち着かせてくれる。
良いことなのか、悪いことなのか。
眠った後、目覚めた時はまだ何もないから、
(少し覚えているかもしれないけど)
だからその時だけは
頑張ろう って。
やってやろうって。
そう思って起きたいもんですね。
泣きそうになる瞬間
東京にいると、泣きそうになる。
シートを敷いて大切な人と寝そべる光景。歩いている老夫婦。向かい側からやってくるめちゃくちゃオシャレなシティーボーイ・ガールたち。はしゃぐ子供とそれをスマホに収める両親。白人と日本人のカップル。日本語じゃない言葉を話す観光客。ベンチでくつろぐ人。横断歩道を埋め尽くすほどの人の群れ。それに興奮する人と、興奮する人を見て、東京を実感する人。
「東京」を感じた瞬間、猛烈に泣きそうになる。
自分がその中にいることと、その中に自然に混じっている(ように感じる)ことに毎回毎回、感動する。
表参道を歩く自分。
代々木公園にいる自分。
夜の渋谷でスクランブル交差点をスタスタと歩く自分。
お洒落な人とすれ違う自分。
全て自分が体験していること。
他の誰でもない自分が、存在している場所であり見ている景色。
私はこの世界に憧れがあって、
今憧れの世界の中に自分もいるという事実。
その事実が嬉しくて、信じられなくて、少し悲しくて、少し誇らしい。
だから、泣けてくる。
世界で一番好きな都市、東京。
そこで私は、今、生きている。
ブラックコーヒーはブラックコーヒーで。
ブラックコーヒーは、ブラックコーヒーのまま飲むのが好き。
クリームは入れない。
ここでいうクリームはコンビニや喫茶店にあるプラスチックの容器に入った少量の白い液体、コーヒーフレッシュのことを指す。
あれって生クリームでも牛乳でもなくて、油だってことを知ってからは、私は極力口にしないようにしてる。
ブラックコーヒーはブラックコーヒーのままが一番美味しい。
私はいつブラックで飲めるようになったんだろう。
知らず知らずのうちにブラックコーヒーは私の意識下にいて、無性に「飲みたい!」と思わせる存在になっていた。
好きなものなんてそんなもんで、知らないうちに好きになってるんだね。
もし味を変えたいのであれば、たっぷりの牛乳と適度なガムシロップまたは砂糖を加えて濃厚なコーヒー牛乳にするのが好き。
それを満足するまでガブガブ飲む。
それができるのはお家でだけ。
お店で頼む「簡単で、お洒落、なおかつ美味しいラテ」もいいけど、高いし、ガブガブ飲むのもなんか違う。
氷を入れた大きめのグラスとスーパーで買ったブレンディ無糖。そこに牛乳とガムシロップを入れれば、最強最高のコーヒー牛乳の出来上がり。
仕事から帰ってきて、腰に手を当ててグビグビと飲むコーヒー牛乳の美味しさったら。
今日も1日お疲れ様。頑張ったね。って、その時くらいは自分を褒めてもいいでしょ。
うまくいかない1日だったとしても、
疲れ切っててボロボロでも、
暇で退屈な時間を過ごしたとしても、
それでも今日も1日乗り切ったんだもん。
頑張った。
ブラックコーヒーとコーヒー牛乳
選ぶ自由と好きなだけゴクゴク飲む権利はあるわ。
生きるって、どんなことよりも難しい。
東京に住んでることで得られることはいっぱいある。いっぱいありすぎて飽和状態だなぁって思う。だけど、だから楽しいし、もっと楽しみたい。でもそうじゃない場所と時もあるってことも同時に分かり始めたのが最近で、自分だけが楽しくていいのかなとも考える。社会人一年目のひよっこに何が出来るって話だけど、探せば問題は沢山あるし、すぐに解決策が見つかるような簡単なことじゃない。でもそれが人生ってもんなのかと。みんな悩みながらも、もがきながらも、必死で楽しむ術を見つけて強く生きてるのか。そう思うとなぜか泣きそうになる。自分だけじゃないんだっていう安堵からくる涙なのか、はたまたみんな同じ痛みを抱えているっていう悲しみの涙なのか。生きるって、難しい。
分断されてる、けど交じり合う私達
今週の月曜日。私は朝8時にみなとみらいのカフェでモーニングをいただいていた。早めに駅に着くようにしたのもこのためで、モーニングってなんか得した感と優越感に浸れるから好き。
近くに座っている女性との距離感を考えつつも、座り心地の良さそうなソファ席を選んだ。右は柱。左は空席、そのまた左は作業中の女性。
女性 空席 私 柱
↑こんな感じ。
私が席に着いてから3分経ったか経たなかったかくらいで、私と女性の間に横浜マダムらしき二人組が着席。
どこに座るのも自由なんだけど、あれだけ広くて他の席も空いているあの状況で人と人の間にあえて座る強さ。そんなに広くないし、隣との間隔も広いというかむしろ狭い席。なにゆえそこを選んだのか疑問に思いながらも、私は厚切りトーストを食べてました。
結構ガンガン話してて、隣にいた私も耳だけ話に参加。両者の子どもは同じ学校に通っていて、お互いの家に行くほど仲が良い。昨日もお家に遊びに行っていて、夕ご飯もご馳走になったみたい。そこから子どもの話、家事の話、母親と父親の話(子供から見るとおじいちゃんとおばあちゃん)など、普段はなかなか聞けない貴重な話を平日の朝からタダで聞けて、得した気分。
平日の朝からここにいるってことは、普段は仕事をしてないのだろうか?今日の朝は子供はどうしたんだろう?旦那さんはどんな仕事を?今日は朝早くから2人で何をするんだろう?などなど、たくさんの疑問が私の頭の中に渦巻く。
少し早く起きて外に出ると、普段の自分の世界の外にいる人に思いがけなく出会える時間がやってくる。世界は本当に分断されている。世界レベルで見ると深刻なほどに分断されてる。だけど交じり合う時も必ずあるんだなぁと、感じた。
みなとみらいマダムは私の横に座っていて、何をどうに思ってたのかも気になる。
「厚切りトースト食べてる大学生」ってだけかな。
思ってもみなかった場所
ふと自分の今の生活を見つめてみると、5年前には思ってもみなかった場所で生活をしていることに気付いた。品川駅に買い物に行く自分なんて一体誰が想像できただろう。
就活をするまで品川駅で降りたことなんて一度も無かった。新幹線が止まることも、羽田空港へ行けることも、何路線もの電車が縦横無尽にやってくることも、全部、何も知らなかった。
でも今は知ってる。分からないこともまだ沢山あると思うけど、大体知った。いつの間にこんなに知ってることが増えたんだろう。
品川駅にはcity bakeryがあるっていうのは、お母さんが昔から言ってた。今考えるとなんてお洒落で最先端な母親だったのかと思う。今もそうだけど。
高輪口の上のほうに書いてある「JR品川駅」を初めて見た瞬間を私はもう覚えていない。品川駅というとそのイメージが1番強くて、ネットとかテレビでよく見ていたから実際に高輪口に向かって歩いて行く時に必ず見たはずだけど、その記憶は悲しいことにない。
その代わり覚えているのは先月の夜のこと。レイトショーの帰り、金曜夜、ガヤガヤワイワイ。高輪口へ向かう最後の難関は目の前の横断歩道。第一京浜、そしてここは東京・品川。信号待ちは結構長い。
そこから見た景色と人の熱気。テレビで見ていた品川駅・高輪口がそこにはあった。「ああ、私は今あそこにいるんだ。あそこの中に生きている。」と。美女と野獣を鑑賞した後だからなおさら感傷的だったのかな。
私はあと何回、「東京」を感じられるのでしょうか。