サラダ屋で見たことの記録。

2022年1月。私はさっきサラダ屋にいた。

むしゃむしゃと緑の葉っぱと豆腐と玄米とその他具材がクリーミーなドレッシングで ない混ぜにされたサラダを食らう、港区で。豆腐を食べた瞬間に、ドレッシングのチョイスをミスったと思った。豆腐には柑橘系だ…。次回はミスらないようにここに誓う。

サラダ屋は港区の人生の通過点だと思った。決して安いとは言えないサラダをテイクアウトして颯爽と店を出る。そんな彼女や彼は、紛れもなく港区の人生を手にしていて、今日も明日も昨日も私が見上げながら通り過ぎる高級タワマンの明かりの一つとなって、買ってきたサラダを食らうのだろう。

テイクアウトの容器も、下のボウルの部分は紙製もしくはプラスチックの含有率が低いであろう素材に切り替わっていたと思う。「思う」と不確定なのは、そろりそろりと視線をやるから。サラダを有料の袋に入れる姿を凝視し過ぎると店員さんに怪しまれる。それにしてもちょっと前まではプラスチック製だったのに。変化は劇的であっさりだ。蓋は変わらずにプラだけど。そんな蓋を閉めたら最後にお店のロゴ入りのテープをビーっと長く取って一の字に貼り付けて蓋を抑える。他者の何かを見て「それ、要る?」と思うことが多い世の中だけど、そういう無駄で成り立つ世界があることも知っているから、私のスタンスはあくまでも凝視。いざ自分の身に「完全なる不要」が転がり込んだらそれは断るけど。

港区の人生にエコバッグはないのだろうか?むしゃむしゃと野菜を咀嚼している間に、3人、テイクアウトで港区の夜の闇に消えていった。サラダと有料の袋を手に下げて。プラフォークをしっかりと持って返った女性もいた。プラスチックで食べるご飯は会社で仕方なく食べるコンビニ弁当だけでありたいと思う私と彼女は、同じ性別の下に生まれただけで、たまたま同じ時に同じ通過点に居合わせただけで、今はもう全然違う方角と角度で人生を進んでんだろうなー、とか思っちゃったり。

それにしても、野菜を摂ることとその瞬間の背徳感の無さは天下一品である。何事にも変え難いかも。